担当教科について
異質なものに惹かれて
英語 / 大松 達知
Q1 担当教科に興味を持ったきっかけを教えてください。
小学校のころから、なにか異質なものに惹かれていた記憶があります。なぜかお寺のエキゾチックな雰囲気が好きでした。仏像の写真の切り抜きを部屋の壁に貼り付けているような変な子供でした。それもあって将来は中国語を学んでみたいというぼんやりとした希望はありました。ただ、行動力もなかったので、その願いは封印されて中学に入学しました。
そこで出会ったのが中国語の代わりに英語だったんです。担当は浄土宗の僧職にもあってミャンマー語(当時はビルマ語と呼んでいました)の権威でもあられた先生でした。先生は音声教材をあまり使わず、ご自身で音読されていました。思い返せば、その先生の優しくて低い声や穏やかな話し方に惹かれていたのかもしれません。勉強するというよりもその先生の発音を真似て文を読んだりするのが心地よかったんですね。お経を聞いて読む要領だったのかもしれません(笑)。試験の成績は平凡でしたが、英語学習は好きでした。NHKラジオの基礎英語(昔からあったんですよ)も聞いていました。英語の音の並びの不可思議さを楽しんでいたんですね。
あと、英会話の授業が朝一番(1時間目が8時ちょうどに始まる学校でした)で、アメリカ人の先生にMy father is sleeping now. (父はまだ寝てます)みたいなことを言ったら大笑いしてくれたことがあって、外国語が通じる楽しさを感じたことが記憶にありますね。
Q2 担当教科の魅力を教えてください。
今述べたように、日本語とはまったく違う音の並びを自分の口から発したときに、それが相手に直接に作用する、というのはエキサイティングなことです。例えば、ツオスオツァイナール?みたいな音の並びを口から発したとします。相手が中国人なら、ああこの人はトイレを探しているんだな、とわかってくれます。コミュニケーションの9割は非言語とは言われますが、外国語はやはり言わないと伝わらないし言えば伝わります。ハオツィーと言えば喜んでくれるし、プーヤオと言えば悲しい顔をされる。わざわざ中国語を例にしなくてもいいんですけどね。私の意識としては、「英語」というよりも、もっと広い意味での「外国語」を教えているという感じなんです。
英語以外の言葉をカタコトで使うときに、外国語学習の原点を思い出すときがあります。生徒には英語版のそういう原初の体験みたいなものをときどき思い出して欲しいと思います。
ついでに言います。日本語は和語と漢語の混成語ですね。「海で泳ぐ」と言ったり「海水浴する」と言ったりします。〈うみ〉というもともと日本にあった音と、〈カイ〉という中国から入ってきた音を自然に混ぜて使っているわけです。もともと「うみ」と呼んでいたものに「海」という漢字をむりやり当てはめて「うみ」と読んだり「カイ」と読んだりしているのです。つまり、ふだんの生活の中に「外国語」が入り込んでいる。もう1500年以上経ちますから、こんなことを意識するのはおかしいのかもしれませんけど。
実は英語も同じように二つの系統の言語の混交物なんです。例えば、「海」はドイツ語では「See(ゼー)」と言い、フランス語では「mer(メール)」と言います。英語ではsea(シー)という言葉はありますが、mer に近いマリーン(海の)という言葉も使いますね。マリーンライフといえば海の生き物のことです。難しく言えばそういう語彙の二重性を知ることも英語を学ぶ楽しさの一つでしょう。
もちろん、コミュニケーションの道具としての英語という側面は圧倒的でしょうけれど、言葉そのものに注目してもおもしろいと思いますよ。まあ、そんなことを言う人が英語の教員になるのかもしれませんけどね(笑)。
英語 / 大松 達知